第7回 伊東屋でお願いしたモンブランとウォーターマンの修理は、長ければ1ヵ月ほどかかるという。待つ間にもおれの万年筆熱が上がり続けていたので、手ごろな価格のものを1本買ってみることにした。

 地元の文具店では万年筆が売られていなかった。これは意外だった。その店は、30年ほど昔には「東京で2番目に大きい文具店」を売り文句にしていたくらいだからそれなりの規模ではあるのだが、いまでは万年筆をほとんど置いていない。数本の在庫があるにはあるが、ショーケースに鎮座ましましている風で「年に数本売れればよし」といったムードがあった。しかもけっこうな値段のものばかりだったので、地元で買うことじたいをあきらめた。取り寄せを頼んでまた待つのでは、本末転倒だからだ。
 万年筆は一般的なな筆記具ではないんだな。ま、おれだって長いこと万年筆の存在を忘れてたんだから、文句を言える筋でもない。街(おれにとっては池袋)に出るときに探すことにした。


 結果、打ち合わせで外出した日に東急ハンズ池袋店でこれを買った。







パイロットのボーテックス、1500円。おれはゲーム畑が長いからか、ついボーステックと言いそうになる。大戦略。ボーテックスとは渦とか螺旋といった意味らしい。ペン先が鉄で、ボディーがプラスチック製。主軸は特殊樹脂で、薄くて固めのラバーの溝がすべり止めになっている。
 "気軽な万年筆"である。ボディーカラーにはさまざまなバリエーションがあったが、好きなオレンジを選んだ。ペン先(ニブ)はMとFで、Mのほうが太い。視認性を考えてMを選んだ。


 帰宅してから落ち着いて試し書き……ができるほどの堪え性がない。すぐに東池袋の喫茶店に入って字を書いてみた。東急ハンズ池袋駅の距離はたいしたことがないが、まだひと休みが必要な体調でもある。
 こうなることがわかっていたから、東急ハンズのレジでは「シールでけっこうです」と言った。このセリフ、じつによく使う。本心ではシールすら貼ってほしくないんだが「会計を済ませたあとはすぐに店を出て、この商品を家に置くまでは決して戻ってこないから、トラブルを起こす危険性もありません。だからシールを貼らないでください」では呪文が長すぎる。だからいつも「シールでけっこうです」と言っている。


 喫茶店で空席をみつけ、さっそくボーテックスを取りだす。透明なプラスチック製のパッケージが値段なりのシンプルさでおれ好み。たいそうな箱はちょっとね。付属のインクカートリッジをセットして、さあ試し書き。って、何を書けばいいんだ。よくある「永」を書いたりするのは気恥かしいので、ネオシーダーのパッケージにあった文句を写してみた。






 鉄ペンというからガリガリした感触を想像していたが、なめらかな書き心地だ。キャップがスクリュー式で、3回転=1080度ほど回転させないと脱着できないのがすこしだけ不便だが、ペンと同時にキャップを逆方向に回転させればいいじゃないか。と気づき、この点はおれにとって問題ではなくなった。


 ボーテックスを買った数日後に、修理代の件で伊東屋から電話があった。修理費が1万円で収まるなら連絡はいらない、それ以上なら連絡をくださいと頼んであった。
 電話のむこうの男性スタッフによると、モンブランのボディーに細かいヒビが見つかったので、交換の必要があるそうだ。修理代は15000円。
 すでにおれはネットで「146の現行品に使われている樹脂が粗悪なため、インクフローに問題がある」という情報を得ていた。これを知ったときは、30年まえの自分のモンブランにはあてはまらない欠陥だと思い、古いモデルであることを誇らしく感じた。しかしヒビが入っていたのでは質以前の問題である。このままで使うわけにもいかないので、修理を頼むことにした。
 もう一点、伊東屋に万年筆を持参したときに頼み忘れていたことについてもお願いすることにした。


 「入れてある名がほとんど消えてしまっているので、もう一度名入れをしてください」。すると男性店員は「ああ、消えちゃってますね。ただ、この万年筆をお買い上げになったのはモンブランの正規ショップではないようで、お名前を入れる場所が違います。モンブランではこの場所にお名前を入れ直すことはできないんですよ」。
 ほう、そうなのか。でもさ、事実は事実としても、ほかの言い方で同じ内容を伝えることもできると思うぞ。伊東屋、接客研修がんばれよと思いつつ「では正規の場所にお願いします」と頼んだ。名入れ代は2000円。ウォーターマンの修理代は、まだわからないということだった。


 この電話から2週間後、ウォーターマンが修理から戻ってきたと連絡があった。コネクターを交換して、修理代は6500円。モンブランがいつメーカーから戻ってくるかは、まだわからない。ウォーターマンだけでもすぐに手にしたかったのだが、天候と体調のかねあいから、電話の2日後に伊東屋に向かった。


 午前11時ごろに池袋東武デパート・伊東屋の万年筆売り場のカウンターんに着く。預かり証を見せながら名前と要件を告げると「グッドタイミングです。たったいまモンブランが戻ってきました」と、先日電話をくれた男性らしき店員が言った。
 おれには巨額と言えるほどの修理代を支払って2本の万年筆を受け取り、喫茶店で試し書きをしたい欲求を抑えて部屋に帰った。


 修理票によって、おれのウォーターマンの名前がわかった。『ルマン オペラ』。伊東屋で「これは世界で50本しか販売されなかった幻のモデルですよ」なんて言われたらどうしよう、と妄想していたが、そういうことはなかった。
 さっそくネットで検索してみる。あったあった、たしかにこの万年筆だ。ほうほう、なるほど。ほんとは「ル・マン100 オペラ」と100が入るのか。


 モンブランの修理表には「MB WI MEISTERSTUCK GOLDPLATED BEETHOVEN」とある。"MB"はモンブランだろうと想像がつくが、"WI"ってなんだろう。"BEETHOVEN"はベートーベンか。146の別名なんだろうか。それともベートーベンという名のモデルなんだろうか。
 ウォーターマンのほうにも「ルマン オペラ FP」とあるけど、"FP"ってなんだろう。まだまだわからないことだらけだ。







 これらの暗号につての疑問こそ解消できなかったが、ネットや本で調べるうちにわかったこともある。ペン先(ニブ)のデザインから、146が1970年代のモデルであること、ウォーターマンは3世代あるオペラのなかで第2世代のものであること。










 ボーテックスには申し訳ないが、この2本の試し書きには気合を入れた。ごめんな、思い入れの桁がちがうんだ。
 ウォーターマン―いや、ルマン100 オペラと呼ぼう―では『黄金餅』の道中付けのくだりを書いてみた。志ん生バージョンだ。インクは伊東屋で入れてくれたウィーターマンのフロリダ・ブルー(だと思う。「インクは何色を入れますか」と聞いてくれたとき、おれは「青」としか答えなかったので正確な色がわからないのだ。ブルーブラックの可能性もあるが、いまのおれには差がわからない)。
 ネットの情報では、「絨毯に沈み込むような独特な書き味」がこの万年筆の特徴らしい。しかし残念ながらそのように感じることはできなかった。むしろ硬い印象だ。ボーテックスよりも硬いと感じた。調整のしかたによるものなのか、感覚のちがいによるものなのか、おれにはわからない。いつか万年筆に詳しい人に会う機会があったら教えてもらおう。







 146では『赤瀬川原平の名画読本』の一節を写してみた。現役作家のなかで、おれが「いちばん文章がうまい」と感じている人。こちらはイメージ通りの、おれにとっての"万年筆らしい"柔らかさと腰のある書き心地だった。