このブログを始めたときから、予防線を張るように何度も書いてきたこと。それが「おれは飽きっぱいからいつまで続くことやら」だった。
 で、その時がやってきた。いちおう最後ということで、「飽きた」の内についておれらしく、ぐちぐちと説明して中締めとさせていただこう。


 ペン習字、とくにパイロットの講座で上達するためには「自分が選んだ系統の講師の字に惚れ、近づこうと努力する」ことが必要だ。 最初のころこそ、おれは「この"え"の形には納得できん」とか、「"感"のしたごころが小さすぎるんじゃねーの?」などと文句ばかり垂れていた。しかしある時期、両手を挙げて降参することに決め、お手本にすこしでも近づくための練習に切り替えた。
 するとそれまで昇級せずにくすぶっていたのが、堰を切ったようと言ったら大げさだが、順調に級を進めることができた。最終的には今年の2月の時点で、7級Bまで昇級させてもらった。
 「パイロットでペン習字を学んだことがあります」と言うには最低でも7級にはならなくちゃな、と思っていたので、ぎりぎりの線には辿りつけたと思っている。


 困ったのは、ある時期からお手本の字が美しいと感じられなくなっちまったことだ。
 生意気を承知で書けば、もともとおれ自信がペン集字的な美しさを求めていなかったのだと気づいてしまったのだ。どうやら自分が求めていたのは"万年筆で書かれた味のある癖字"だったようだ。そして、おれにとっての"よい手"の代表が亡父の字であることは、いまも変わっていない。そうだ、父の筆跡はまったくペン習字っぽくなかったもんな。


 姉から聞いた話では、父はもともと字が上手で、字を書く行為そのものも好きだったようだ。
 おれの父親だけあって、すぐいろんなものに手を出す。あるとき、ペン習字の通信講座を始めようとしたらしい。おそらくおれが生まれるまえだろう。それがどこの通信教育なのかは知るべくもないが、父は教材を前に一日だけ練習すると「この字は好きじゃない」とやめてしまったそうだ。おれより決断が早い。


 ひとつ、はっきり書き残しておきたいことがある。「パイロットでペン習字を学んだことは無駄ではなかった」という感謝の念。
 無駄どころか、字や、それを構成する点画、そして字によって姿を表す言葉や文章。こういった、おれにとって大切なものに対して、ペン習字はおれの目から薄皮を一枚また一枚と剥ぎとってくれた。
 それまで意味の側からしか捉えていなかった言葉に対して、形の面からアプローチすること。その形の背後には心があること。ペン習字のおかげで気づけたことは、とても大きい。


 ありがとうございます。


 ついでに書くと、この自己満足のブログに背を押されてペン習字を始めた人も何人かはいるようで、ちょっとはパイロットに恩返しができたかな、と思っている。


 ペン習字や万年筆の本、B5原稿用紙など、始めたままで放り出してしまうものが多いのは、申し訳なく思っている。ごめんな。そして、もう一度、ありがとう。