第34回 新しく買った4本の万年筆のうち、今回は金属製の軸をもつ2本のことを書く。ピカソとミュー。なんかのタイトルになりそう。
(前編:ホームラン万年筆と100円万年筆 は→こちら)
3本目はPICASSO PS903-N。
ピカソというメーカーはフランスの会社らしいが、詳細はわからない。品名は落札したオークションショップの表記に倣っただけなので、正確かどうかも知らない。
とにかく、よくわからない万年筆である。
落札価格は1400円だった。中古ではなく、新品である。
出品していたショップとおれとの相性が悪かったらしく、連絡に手間取ってイライラやきもきしたのを覚えている。質問をするたびに的外れな定型メールが返ってきてじりじりしたし、入金後10日も経っているのに商品が届かないので問い合わせたら「入金が確認できていません」ときたもんだ。そもそもそのショップは連絡先電話番号を明らかにしておらず、メールかFAXでしか問合せができなかった。メールは3回送ってようやく質問の答えを得られるという塩梅で……ええい、思い出しても腹が立つ。
入札した動機は「青い軸の万年筆がほしい」と思ったこと。
カタログ雑誌を見ると、セルロイド製の美しい青軸の万年筆が何種類も載っている。しかしおれには高級品を買うゆとりなどないし、資格もない。未練がましくオークションサイトを見ていたところ、出くわしたのがこのピカソだった。一目ぼれってやつだ。
落札の段階でいろいろとあやがついてしまったので、とんでもないパチ物が送られてくるんじゃないかと訝っていた。いや、金だけ取られて万年筆は届かないケースすら想像していた。
しかし、だいぶ遅れて送られてきた万年筆は、ずっしりとした重さを持っていて、質感だけでも「1400円にしてはお買い得かも」と思えるものだった。重けりゃいいってもんじゃないけどね。
紙箱とはいえ、化粧箱つきだ。箱の蓋はマグネット式。おれは過剰包装を嫌っているが、万年筆の化粧箱に限っては悪いもんじゃないなと思った。
でも、オークションでの説明文には「説明保証書」付属と書いてあったのに、箱のなかのどこを探してもそれらしきものはなかった。他の落札者からの評価はとくに悪くもなかったから、とことん相性が悪かったらしいだ。
インクの吸入方法はコンバーターとカートリッジの両用式で、スクリュー式のコンバーターが付属していた。ところがこのコンバーターの作りが粗く、筒の密閉度が低いようでインクを吸い上げる効率がよろしくない。それでもなんとかインクを入れ、重さを量ってみると31グラムもある。おれが持ってるなかではウォーターマン・ルマン(36グラム)に次ぐ2番目の重さだ。
軸の色は、それに惚れて買ったんだから当然のことだが、おれの好みだ。htmlで無理に再現するとこんな感じか。→ ■■■■■
軸色は青よりも紫に近い。和名でいうなら青藍と藍錆色の中間といった色合いである。天なら、空をつきぬけて"もうすこしで宇宙"といった色。海なら、ぐうっと潜ってぐるりが暗闇になる手前の色。いずれにしても「引き返すならいまだぞ」と囁かれているような、沈黙と静寂と不安を孕んだ色に思える。それなのに、この色を見ていると心が落ち着くから不思議である。
グリップとキャップリング、主軸の尻の3ヵ所が銀色に輝いている。もちろん本物のシルバーではないが、これはこれで美しい。グリップとキャップリングにはメーカーのロゴとおぼしきピカソのシンボルマークが刻まれている。
同じマークが鉄製のペン先にも刻印されているのだが、購入後にあちこちのサイトを見て「しまった」と思った。というのも、おれのは銀一色のペン先だが、材質はおなじ鉄でも金メッキが施されたモデルがあるのだ。書き味に影響がないとはいえ、スカを引いたような感じがして、くやしい。
ペン先への刻印は、このロゴマークのほかに"PICASSO FRANCE F"としてある。
"FRANCE"がフランス製を示すのか、「作ったのは中国だけど本社はフランスだよ」と言っているのか。これまた不明だ。
文字を書いてみると、購入段階で感じた負の感情は海の底に消えた。
金ペンのような柔らかさこそないが、たいへん書きやすい。紙に吸いつくといえば大げさになるが、字を書いていて気持ちがよい。ボディーの重量が適度な負荷となって、心なしか文字も安定する。長文を書くには向いていないかもしれないが、"書く楽しみ"が味わえる万年筆であることはたしかだ。
いろいろなサイトを見てまわったところ、あちこちで同じ万年筆が売られている。不思議なのが価格で、高いところでは6000円くらいする。「よっしゃ、おれは安く買ったんだ」と喜びながら他のサイトを見ると、新品が1000円だったりもする。
不思議な万年筆である。
4本目はPILOT ミュー。
こちらもネットオークションで落札したものだ。ピカソとはちがい、中古品である。じつはおなじミューの新古品(デッドストック)のオークションでぎりぎりまで競ったあげくに敗れ、その熱を帯びたまま落札してしまったのがこれ。7200円だった。
先のピカソのところで"一目ぼれ"と書いたが、ミューに対する一目ぼれの度合いは桁がちがう。
ミューがパイロットから発売されたのは1971(昭和46年)だから、おれは8歳で小学校3年生だったことになる。
当時から文房具が好きで、2日とあけずに近所の文房具店に通っていた。とはいえ3年生のこと、見るのは鉛筆や定規、消しゴムといった小物が中心だった。
ある日、店内のショーケースに見つけたのがミューだった。当時のおれは、万年筆という筆記具そのものの存在すら知らなかったかもしれない。知っていたとしても、万年筆独特のペン先の形を美しいと感じるセンスなどなかったはずだ。むしろ、古めかしくてかっこ悪いと感じていた可能性のほうが高い。
そんな小僧がひと目で惚れてしまったのがミューである。主軸とペン先が継ぎ目なくすらりと続くそのフォルムは、世界中の「かっこいい」を集めてペンの形にまとめたもののように思えた。
そのころのミューの価格は3500円だったが、小学生に手の出る値段じゃない。来る日も来る日もその店に通い、ケースのなかのミューを眺めていた記憶がある。
個人の美的感覚の基準が何歳くらいで固まるものなのか、おれは知らない。おそらく物心つくまえにベースとなる感覚がおぼろげに敷かれ、その後"好き嫌い"の判断を繰り返すなかで感覚がゆるやかに育ってゆくのだろう。
まだ確たる基準を持っていなかったおれにとって、ミューの存在は大きかった。「これが好き」と思う以前に「かっこいいのはこういうもの」と刷り込まれてしまった感すらある。のちにおれは仮面ライダーの新サイクロン号、超音速旅客機コンコルド、ギターのレスポールなどを"かっこいい"と思うようになる。そのかっこよさの基準を作ったのがミューなのは、まちがいないだろう。
ミューにはいまでもファンが多く、グーグルで「万年筆 ミュー」と打ち込めば、さまざまなサイトがヒットする。こんな感じだ。
「世界一美しい万年筆」「世界一かっこいい万年筆」と書く人もいる。しかし8歳のおれにとってはそれどころではなかった。「世界一かっこいいもの」それがミューだった。
長い年月を経てようやっと自分のものになったミュー。何百本も万年筆を所有しているよなマニアの評価は「フォルムは斬新だが書き味はへんてこ」といったあたりに落ち着いているようだ。しかし、おれにとってはすばらしい書き味なのである。変わっていることは認めるが。
万年筆の書き味を決める要素がいくつもあるなかに"ペン先のしなり"という項目がある。ミューはペン先と主軸が一体化しているため、この点でのしなりは限りなくゼロに近い。万年筆のプロやセミプロは、それを指して「へんてこ」と言うのだろうが、おれにとってはじつに楽しい書き味となっている。"安心感"が桁ちがいなのだ。
ミューの安心感について、もうすこし書いておこう。
一般的な万年筆のペン先は、主軸とは別個のパーツだ。軸側に設けられた接合部に金属製のペン先が嵌めこんであることは、一目瞭然である。見ればわかる。考えなくてもわかる。
別個の部品どうしが連結されていることを直感的に知ると、人は無意識のうちに「接合部に力をかけてはならない」と思うはずだ。万年筆で字を書くときの筆圧は弱めにするのが常識とされているが、意識的に筆圧を下げることのほかにもうひとつ、接合部を守るために無意識の"力の遠慮"が働く。と、おれは考えている。
一方のミューには、ペン先と軸の接合部などない。ひとつのパーツなのだから当然だ。いわばペン先を直接持って字を書いているようなものだ。しかもそのペン先=軸は、思い切り握りしめたところでびくともしない強固なものだ。ここで、「必要以上に力をかけてはいけない」という無意識の"力の遠慮"が消える。もちろん万年筆であることに変わりはないから、意識して行うほうの筆圧コントロールは活きている。
結果、ミューでの筆記時には"力の遠慮"がなくなるため、のびのびと字を書くことができるのだと考えている。これがおれの"ミュー安心理論"だ。
ミューを落札してほんとうによかったな、と思う。
入札したときには、"子供のころに買えなかった意趣返し"のような気持ちがあったが、筆記に使ってみると新鮮な書き味でおれを喜ばせてくれた。この書き味は、他のどんな万年筆でも味わえない、ミュー独特のものだと思っている。
4本の万年筆で同じ字を書いてみたので、写真を載せておく。原稿用紙は満寿屋のもの、色が微妙に違っているがインクはすべて同じもので、ウォーターマンのターコイズだ。
手短に寸評を書くと、書きやすいのはピカソ、独特で楽しいのがミュー。捨てたもんじゃないのが100円万年筆、問題外がホームラン万年筆。てな感じ。