第6回 今年の2月。病室のベッドで半醒半眠の日々を過ごすなかで、しばしば父のことが思い出された。
父が亡くなってから24年になる。いま思えば、父はおれが好きなタイプの大人だった。陽気で温和、ろくに小学校も出ていないはずなのに物知りな人だった。おれが知っているのはこれだけで、あとは父の死後に祖母から聞いた話だ。その祖母も去年亡くなった。
腕の良いふとん職人で、懐具合の寂しいお客さんにふとんの打ち直しを頼まれると、しるしばかりの料金をもらって、こっそりと2ランクも上の綿で打ち直すこともあったという。
若いころは喧嘩っぱやかったそうだ。池袋の繁華街で筋者に囲まれている人がいると、わけも聞かずにしゃしゃり出て、けっきょくは自分が殴られることもあったとか。どんな風の吹きまわしか、そういった人種に慕われることも多く、祖母いわく「池袋の番長」だったとか。
もっといろいろと話を聞いておけばよかった、と病院のベッドの上で思った。
いや、もっとどころではない。おれには父と話をした記憶がほとんどないのだ。おれから話しかけたことなど、まずなかった。あっても「お父さんに報告しなさい」と母から命じられた場合に限られていた。
そもそも、おれは父に対して敬語しか使ったことがない。まれに父がおれに話しかけてくることがあっても、「はい」「いいえ」のほかは、最小限の言葉しか返すことがなかった。
父のことを嫌っていたわけでも恐れていたわけでもなく、母からそういう教育を受けていたのだ。ホームドラマでよく見る、友達のような親子関係。または正反対のパターンの、親に対して暴言を浴びせる子供。そんなものはテレビのなかの作りごとだと思っていた。
だから父との会話の記憶がない。
ただひとつ、強く印象に残っているのは、父が「よい手」を持っていたことだ。大きくて厚みと温かみがあって、指先に力が過不足なく伝わる手。力仕事もできたし、細やかな仕事も得意だった。父が書く字は、男らしくて読みやすかった。書道を習ったことなどないだろうから我流にちがいないのだが、ボールペンで書いたときでもまるで万年筆を使ったような文字だった。大きな字でも小さな字でも、男らしくて優しさがあった。
父は50歳ごろに脳梗塞を患った。今回のおれとちがって、はっきりと後遺症が残った。しばらくは呂律が怪しかったし、右半身に麻痺があった。リハビリのおかげでずいぶん回復したが、ふとん職人として復活することはなく、病後は川越街道沿いに店舗スペースを借り、自分の趣味でレンタルビデオ屋をやっていた。
久しぶりに父の書いた字を見たくなった。姉に頼むと「とりあえずこれがあったよ」と、金銭の管理簿を貸してくれた。父は亡くなる数年前に家を建て替えて、5階建てのマンションにした。そのときの住宅ローンについての帳簿が出てきたのだ。
あらためて父の字を見ると、やはり懐かしい。
病後の字なので線が微妙に震えているし、バランスも崩れている。しかし、丁寧に書こうとする気持ちが伝わってくる。字をバカにしていない。
この帳簿を作っていたころの父が、字を書く手を止めてため息をつき、左手で自分の右手をピシャリと叩く姿を何度か見たことがある。イメージ通りの字が書けない自分の手がもどかしかったのだろう。
でも、この「富士銀行」だって、十分「よい手」だとおれは思う。
さて、父の遺伝子を半分受け継いでいるおれの「手」はどうだ。
自分の手帳を見直してみると、おれが書いた字は、寄り集まってみんなで「めんどくせえ!」とつぶやいているように見える。声を合わせたシュプレヒコールではなく、個々の字がばらばらにつぶやいている。
これじゃあだめだ。父に、おれの右手をぴしゃりとやってほしいくらいだ。
よい手がほしい。父のような。
これが、ペン習字を始めるもうひとつの理由である。