第39回 ペン習字を始めなければ気にかけることもなかったであろう些細なこと――万年筆の持ちかた――。これについてひとくさり。

 まずはじめにお断りしておかなくては。
 「万年筆 正しい持ち方」といったキーワードで検索した結果ここに辿りついた方は、いますぐこちらに行ったほうがいい。
 ↓
 ペン字いんすとーる  『正しいペンの持ち方について調べてみた』


 あなたが求めている答えは、おそらくそこにある。ただあるだけでなく、経験と実績を伴う活きた知識を得ることができるはずだ。


 万年筆の持ちかたについての正解を知りたい人にとっては、これからおれが書こうとしていることはまわり道にしかならないだろう。なんせ、おれ自身がまわり道の途中にいると自覚しているのだから。
 帰宅の途中でついまわり道をしたくなる。そのあげくに迷子になる。さらに、迷子の状態が楽しくなっちまう。そんな人なら、読んでも時間の無駄にならないかもしれない。



1.なんとなくスタンダードっぽい持ちかた


 万年筆の持ちかたについて、おれが最初に参考にしたのはパイロットペン習字通信講座のテキストだった。
 講座のテキストのうちの『学習ガイド』に「正しい筆記具の持ち方」が載っている。筆記具全般に共通するポイントがいくつか簡潔に紹介されていて、見開きに10点のモノクロ写真が載っている。
 万年筆については「適度の角度に倒して書き、ペン先が片べりしないように書くのがよい」とだけ記されている。適度が何度なのかは書かれていない。まあ、「言われなくてもわかってるよ」と反抗したくなる程度のそっけない説明である。
 パイロットのサイトを見ても、さして詳しい説明はなかった。







(万年筆の角度は約70度)




 このページを見て「万年筆だからといって特殊な持ちかたをする必要はなさそうだ」と思った。だから自分なりに持ちやすい方法で字の練習をした。ところが、ちっともきれいな字が書けないので、頭を抱えることになった。


 「ペン習字の初心者が万年筆で字をちょこっと書いたくらいで上達してたまるか」と、いまなら思う。しかし半年まえのおれは、講座に入会しさえすれば見ちがえるような字が書けるようになると、心のどこかで期待していたのだ。


 ペン習字が上達にどれほど時間のかかるものかを理解していなかった。魔法か、もしくは必殺技のようなコツが存在していて、それさえ知れば一夜にして達筆になれるのでは、と心のどこかで期待していた。


 地味な努力が苦手なうえに嫌いなので、必殺技を探すことにした。必殺技の鍵は万年筆の持ちかたにあると見当をつけた。
 もし半年まえのおれが1000円のデスクペンしか持っていなかったとしたら、魔法の力を万年筆そのものに求めていたはずだ。高い万年筆を使えば自分でもうっとりするような字が書けるにちがいない、と。
 しかし、おれはすでにモンブラン146を持っていた。146でダメならどんな万年筆でもダメだろう。万年筆じたいは魔法の杖ではない。
 だから持ちかたに魔法の秘術を求めたわけだ。



2.小指固定法


 ネットで検索するうちに、おれ好みの魔法が書かれたサイトが見つかった。
 画期的な持ちかたが紹介されていたのだ。それは、マイクを持って演歌を唸るおっさんのように小指をピンと伸ばす持ちかただ。伸ばしたした小指を机にしっかりつけて、手首から先が左右にしか動かないようにホールドする。たて画のときは人差し指と親指、横画のときは中指と親指を意識して線を引く。小指がふんばっているため、強めに力を入れたときても線がぶれない。そんな理屈だった。


 こりゃいいや、とすぐに飛びついた。









 しかし、2日ほど練習しただけでこの持ちかたを諦めることになった。
 まず、小指をしっかり机面に固定してしまうと、万年筆を持つ3本の指の自由度もいくらか奪われてしまうのが短所だった。これを練習によって克服したとしても、もうひとつ大きな欠点があった。
 ある程度の湿度を伴った小指が密着していることにより、紙が汚れるのである。右から左に書いてゆくたて書きではもちろん、横書きをするときですら、書いた字を小指が磨ってしまう。その結果、ノートも指も汚れる。






(撮影日はペン習字を始めた2日後)




 小指を机か紙に密着して書く以上、未来永劫字がこすれる。仮にきれいな字が書けたとしてもこれでは実用には向かない。私はこれで禁煙パイポ方式をやめました。



3.角度に気を配る


 パイポ法を諦めてふつうの持ちかたに戻した。こんどは万年筆を持つ角度に気を配ることにした。
 万年筆の本を何冊か読むうちに「寝かせて持つのがかっこいいらしい」と思うようになったのだ。外国人が万年筆で字を書くYouTubeの動画を見ても、達筆な人は寝かせぎみに持っている。
 また、自分の字のあきらかな欠点が、線の一本調子で固いことだと自覚するようになっていた。この欠点を克服するためにも、万年筆を寝かせることが役立つように思われた。寝かせることで自然と筆圧が下がり、線の質もたおやかになるだろう、と。


 字を書いているときの手を撮影し、角度を測ってみた。









 およそ57度。まあまあである。できれば50度くらいまで寝かせたいところだが、無理に万年筆を倒すと書きずらくなってペン習字どころではなくなる。
 当面は「意識しなくても万年筆が立たない(=角度がきつくならない)ようにすること」に留意して、持ちかたについては現状を維持することにした。



4.親指の先から息を吐く


 練習を重ねればましになるだろうと思っていたが、線質の欠点がなかなか治らない。べったりとした一本調子の線で、おもしろみがない。パイロットの添削でも「もっと軽やかに」といったアドバイスをもらうことが続いた。
 しかし、意識して筆圧を下げると、腰のないふらついた字になってしまう。安定した線を引けないのでは、字形か線質かの二者択一以前の段階である。たおやかな線に憧れつつ、一画一画をきっちり書く練習を続けていた。


 ある日、ひらめいて試してみたことがあった。
 それはひらがなを書くときのちょっとしたコツのようなもの。「右手の親指から糸の細さで息を吐くイメージを持つ」ことだった。ダイレクトに「筆圧を軽く」と考えると必要以上に力が抜けてしまうが、息を吐くイメージはおれに合っているようだった。
 ただしこのイメージが使えるのはひらがなを書くときだけで、漢字に応用しようとすると、とたんに形が崩れてしまう。









 ひらがな専用のコツとはいえ、これを思いついたときにはうれしくて、何ページにもわたってノートにひらがなを書きまくった。 魔法の杖のありかは霧のなかだが、呪文をひとつ覚えた気がした。



5.箸を持つように


 「おれの角度は57度より減ることはないだろう」と諦めていたが、今月になって角度が変わった。
 ネットオークションで落札した『ペン習字入門』というビデオで、その持ちかたが紹介されていた。
 「お箸が正しく持てればペンも持てます」とビデオの講師が明るい声で言う。持った2本の箸のうち、下(親指側)を抜き去った形がペンの正しい持ちかただ、と。
 おれはバカ正直に万年筆を2本用意し、箸のように持った。箸の持ちかたなら、小学校に上がるときに母に厳しくしつけられたので自信がある。ウォーターマンとボールペンを箸と同じように持ち、その形が崩れないように注意しながら親指側のボールペンをそっと抜き去る。
 いい感じだ。試しに写真を撮って角度を測ると45度だった。一挙に12度も角度が減った。これまでの持ちかたとの違いは、どうやら中指の力の入れ具合いにあるようだ。


 字を書いてみて驚いた。筆圧があきらかに下がっている。それなのに線の質が不安定にならない。
 例として箸を引っ張り出してこなくても、この持ちかたを自然に身につけている人は少なくないと思う。小学生にだっているかもしれない。しかしこの「箸持ち」、おれにとっては画期的な方法だった。筆圧と角度の問題を同時に解決してくれるなんて。いまのおれにとってはクロスカップリングよりも大きな価値が感じられる。









 当分はこの持ちかたで字の練習をしていくつもりだ。
 ……と、今回はここで終わるはずだったのに、写真の整理中にまた別の持ちかたのヒントを得てしまった。



6.つまみ持ち


 箸のつぎがつまみってのも芸がないが、とりあえずそう呼ぶことにする。
 自分の手を撮影した写真を見ていて、万年筆を持ったときの親指と人差し指の先が離れていることがわかった。
 ところが、他人の持ちかたを気にするようになると、くっつけた親指と人差し指でつまむように万年筆を持つ人が少なくないことに気づいた。
 ためしにマネしてみると、悪くないんだこれが。ただし軸の太い万年筆には向かないようだ。強い力でつままないと万年筆を保持できないから。


 当分は、通常は箸持ち、細身の万年筆を使うときはつまみ持ちを併用して字を書いてみようと考えている。
 この道草、まだまだ続きそうだ。










7.おまけ


 たまたま見ていた番組で驚いたシーン。
 左利きの人が万年筆で字をきれいに書こうとすると、ペン先の刻印が自分のほうを向くことを知った。肘で90度、手首で90度、合計180度の角度を作ることで、はねやはらいの方向が修正されるわけだな。