第18回 ペン習字の教材が届いてから約2週間、飽きっぽいおれには珍しく、ほぼ毎日練習を続けた。結果、いまの時点でわかったことがひとつある。

 それは「ペン習字はとてつもなく地味である」ということだ。
 字がうまくなっていくプロセスについて、おれは心のどこかで「ある時点で飛躍的に上達するのではないか」と考えていた。希望的観測というやつだ。
 ところが事実はそうじゃないようなのだ。


 手本を見て、真似て書いてみる。
 自分ではそっくりになるようにで書いたのに、パソコンを使って重ね合わせてみると、手本と甚だしく乖離したインクの跡をそこに発見する。誰だよこれ書いたの、とすら思う。おれ自身は、そっくりではないにせよ、ここまで手本とかけ離れた字を書いた覚えがないからだ。
 この時点で初めて、目前の事実にねじ伏せられるようにして、手本との差が自分の脳と手の癖なのだと理解する。


 差が縮まるように注意しつつ、練習をする。
 「おれは『配』のつくりを右に書きすぎる癖があるから、意識して左に寄せてみよう」。あるいは「『日』の幅が広すぎる。もっと狭く、もっと細長く」。こんなことを考えながら何度も書く。そして、書くうちに自分の癖がぶり返す。手本と重ねて乖離した部分を再発見し、修正のためにまた練習する。

 あちらを縮めればこちらが飛び出る。こっちを上げればあっちが下がる。
 練習を続けていると、まれに「これはきれいに書けた!」と思う瞬間がある。しかしつぎにもう一度同じ字を書くと、バランスが崩れる。そしてまた気づかされる。同じ字は二度と書けないのだと。二度と書けないことを認めつつ、差を小さくしてゆくことが練習なのだと。
 こうして練習を繰り返す。書いて、見る。見て、比べる。比べて、考える。考えて、知る。知って、書く。
 このループを螺旋状に積み重ねることのみが、ペン習字の上達の道のようだ。


 ある瞬間にペン習字の神様がやってきて「字の極意を授けよう」と言ってくれることはなさそうである。
 もしそれがあるとすれば「そんなことはない」と心底から思えるようになったときなのかもしれない。
 楽をしよう、近道を見つけようというスケベ心がすこしでも残っているうちは、神様は絶対に顔を見せてくれないはずだ。


 地味に。
 地道に。
 謙虚に。
 丁寧に。
 ゆっくりと。
 我心を捨てて。
 一点、一画を大切に。


 こういった、これまでの人生でおれがもっとも苦手としてたことこそが、ペン習字上達の肝のようである。大げさに言えば、ペン習字はひとつの宗教かもしれない。
 でも、おれはこの宗教が嫌いではないようだ。その証拠に、ぶつぶつ言いながらも毎日練習を続けている。


 とても身近なのに自分の思い通りにできないことが、まさに形をもって目の前にある。そのことに驚いている。同時にその驚きが新鮮で、歓迎している感もある。脳と心への刺激が心地よいのだ。


 ここで恥を晒しておこう。
 ひょっとすると「あの頃はへたくそだった」と笑える日が来るかもしれないし。
 あっさりと1回目、2回目、3回目と書いてみたが、それぞれの間にはけっこうな回数の練習を行った。そして、その練習はとてつもなく地味でありながら、なぜか楽しかった。「才能ねえな、おれ」と言葉では嘆きながらも、口元は緩んでいたかもしれない。