第19回 おれにしては珍しく毎日まじめに練習を続けている。そして毎日ひらがなの難しさを感じる。同時にひらがなの美しさも感じられるようになってきた。



 マンガ『とめはねっ!』で得た知識だが、書道家には漢字の専門家とかなの専門家がいるらしい。
 漢字は大陸から渡来したもの。かなは漢字をもとにして日本の文化が生み出した文字だ。生み出したというよりは、磨きあげたらひらがなになったような気がする。
 ひらがなを「日本の字」と呼んでよいのではないか。すくなくともおれはそう考える。
 これまた聞いた話だが、日本人に化けだモンゴロイドのスパイを見破る有効な方法は"ひらがなを書かせてみる"ことだそうだ。

 文を書くときの漢字とひらがなの割合・バランスを気にかけるようになったのは、おれが高校生のころだった。もう30年も経ったことになる。
 中学までは、書ける字はすべて漢字で書いていた。「為」、「事」、「時」、「様」「筈」。「暫く」「漸く」「何故」などなど。画数の多い漢字を書くと頭がよさそうに見えると信じていた時期が、たしかにあった。


 しかし高校生のある時期から、漢字ばかりの文をどうにも恥ずかしいものだと感じるようになった。そしてひらがなの多い文章に憧れるようになった。
 目標はひらがな7割・漢字3割なのだが、おれの書く文にはまだ漢字が多すぎて、理想は遠いままである(今回の日記のひらがな率は59%)。


 4月にパイロットの講座でペン習字を始めると、まずひらがなを練習することになる。このときに生まれて初めてひらがなをまじまじと観察した。これまで40年以上も"記号"としてしか見ていなかったひらがなに、その原型となった漢字からの変わりかたを含めて、初めて正面から向き合った。じつに遅いデビューである。


 柔らかい。
 そして優しい。
 美しいというよりは、きれい。
 このすばらしい文字を、おれは何十年もただの記号として消費していたのか。じつにもったいないことをしていたと、いまさら気づいた。


 じっと、あるいはぼんやりと。目に込める力加減を変えながらひらがなを見ていると、どこにも直線がないように思えてくる。
 「す」の横画や「ね・れ・わ」のたて画にしても、それは直線ではなく、大きな大きな円孤の一部のような気がしてくる。
 また、どのひらがなも、その形のどこかに珠を抱いているように思える。柔らかい大切な珠を、傷つけないようにそうっと、しかし決して手放さないようにしっかりと抱いている。
 あるいは軽く、でもしっかりと珠を指先で保っているようにも見える。
 それは「文字に円を蔵する」なんて堅いことではなく、あくまで「そうっと珠を」なのだと感じられる。





 当然であり残念でもあるが、おれの書くひらがなは珠を抱いていない。
 大きな孤の一部に見える線が書けることもあるが、それはあくまで図形的なものだ。いつか珠を抱いたひらがなを書く。またひとつ目標ができた。


 日本に生まれてよかったこととして、長いこと寿司と落語と富士山を挙げてきた。
 おくればせながら、そこにひらがなを加えよう。