第1回 おれがペン習字を始める理由は、短く言えば「脳梗塞のリハビリ」だ。


 わかりやすい理由だと思う。この理由にあとからつけ加えた理屈もあるが、それらはすべて蛇足と感じる。でも、あれこれ書いておこう。こうして書くのもリハビリだから。


 ひとくちに脳梗塞といっても症状には重度軽度いろいろある。重ければ発症直後に命を落としてしまうだろうし、深刻な後遺症が残ることだってすくなくない。
 おれの場合はかなりツイていて――自分では「また誰かに守ってもらった」と感じているのだが――自覚できる後遺症は「視野の一部が欠けたこと」だけだ。CTやMRIの画像を見ると、大脳だけでなく小脳にもはっきりと、しかも広い範囲でダメージが残っている。にもかかわらず、呂律がまわらなくなることもなく、指先も足先も自由に動かせる。ありがたいことだ。


 ただひとつの後遺症である視野の欠損。ほぼ円形を成している全視野のうち、右上の4分の1が見えていないのである。と聞いた人は、テレビの画面を4分割して、その右上の一角だけが真っ黒になっている図を想像するかもしれない。
 しかし実際はそうじゃない。脳の補完能力はたいしたもので、ふつうに生活しているかぎりは、自分自身ですら視野の一部が欠けていることに気付かないのである。自分では意識していないのに、欠けている右上4分の1の画像が描き足させれているのだ。しかし、ふとした瞬間に「右上が見えていない」ことに気付かされる。そのたびに「そういえば見えてないんだった」とドキリとする。


 おれが視野の異常を自覚したのは、病院の壁に貼られた月めくりのカレンダーを何気なく見ていたときだった。「このカレンダー、どこか変だな」と感じてよく見ると、1列に7日、つまり一週間分の数字が並んでいるはずなのに、それが途中で消えている。左から月、火、水、木と並んでいるのに金、土、日がない。そんなはずはないだろうと集中してカレンダーを見ていると、浮かび上がるように金曜日の列が見えてくる。おおっと驚きながら見続けていると土曜日の列が浮かんできて、さらに見ているとようやく日曜日の列が認識できた。


 カレンダーの場合は、一行に7日ぶんが印刷されているはずだと知っているから、途中で数字が消失している事態の奇妙さに気付くことができた。そして、「見えてないだけで、そこには存在するはずだ」と信じて注意を払うから、結果的には全体が見えてくる。しかし、それが初めて見る光景の場合、おれから見て右側の景色が消えていることに、自分では気づけないのである。
 見えない部分はブラックアウトしているわけではない。脳がどんな働きしてくれているのか、背景は見えているとしか感じられないのだ。しかし右上4分の1の視野のなかで動くものを認識することはできない。たとえばそこにハエが飛んでいてもわからないし、たまたまその方向からボールが飛んでくれば、無防備なまま顔面を直撃されるしかないだろう。だからもう自動車の運転はできない。おれの車を追い抜こうとするバイクを跳ね飛ばしてから後悔しても遅いからだ。


 視野の一部が欠けたことは検査の結果にも明確に示されたし、自覚もしているつもりだ。しかし、脳があまりに自然に背景を補完してくれるものだから、ついついだまされてしまうのである。そして、視覚が欠けるまえには起こり得なかったミスをしたときにハッとして、自分の脳の状態を再確認するのである。


 病院に見舞いに来てくれた友人と喫茶室で長話をしていたときのことだ。相手が同業者なので、他愛のない世間話のなかにも仕事で使えそうなヒントがある。いつもの癖で、手帳にメモを取りながら話をしていた。そのときに使っていたのは文庫本サイズのほぼ日手帳だった。もう何年も使い継いできた親しみのあるサイズ。筆記具はパイロットのドクターグリップ4+1。やや太めの軸のなかにシャーペンと4色ボールペンが納めてある多機能ペンだ。
 メモを取るなかで、予期しなかった異変が起きた。ページを広げて見開きの状態でテーブルに置いた手帳。左ページにメモを取っていると、ペン先が手帳のノドを超えて右ページに字を書いてしまう。右ページに書いていると、ページの端を行き過ぎてペン先がテーブルの表面にカンとぶつかる。階段を下りていて、段数を読みちがえて膝カックンになった感覚と似ていた。梗塞を起こすまえであれば意識することなく行を改めて取り続けることのできたメモが、慎重な注意を要する一大事に変わっていた。









 退院してから最初にしたのは、新しい手帳の物色だった。
 使い慣れたつもりでいた文庫サイズでは小さすぎる。大きな紙に、大きな字で書く必要がある。とはいえA4サイズでは持ち運びや、それを広げて置くための机を探すのに苦労しそうだ。最初に候補に挙がったのはB5サイズのほぼ日手帳カズンだったが、ロフトで実物を見ると、ページ数が多すぎて持ち運びに苦労しそうな気がした。それならふつうの大学ノートでいいかとも考えたが、こんどは薄すぎて頼りない。
 あれこれ悩んだ末に選んだのが、ライフのB5判ノーブルノートだった。ノートとしてはかなり良い値段だが、100枚の紙が綴じてあるので適度な厚みがあり、紙に薄い色がついているから字が見やすそうだ。なにより書き味がすばらしい。
 おれには平成の年数と同じだけの編集者歴があるので、書籍や雑誌に使う紙についてはそれなりの知識があるつもりだったが、書くための紙について考えたことがなかった。恥ずかしながら、ライフノートに出会うまで「手書きの快感」を知らなかったのである。