第21回 ブログの更新頻度が開設当初と比べて下がっているのは、飽きてきたからじゃない。ネタがないからでもない。ペン習字の練習をしているとブログのために割く時間と体力がなくなる。それだけの話だ。
ペン習字の練習用として、100円ショップで買った『かんじれんしゅうちょう』を使っている。
10文字×5行、50文字ぶんが1ページ。ひとつの枡目は正方形で、そのスペースをさらに4分割する破線が印刷されている。だから字のバランスがわかりやすくて、初心者のおれにはもってこいだ。
先日、1冊目のれんしゅうちょうを使い切った。
1冊は30枚なので、30×2×50で3000文字を書いたことになる。3000文字なんて、長いときの日記なら超えちまう数字だ。しかし一文字ずつ注意しながら練習する3000文字は、けっこうな書きでがあった。
小学生のころから、ノートを使い切ることのない子供だった。すくなくともこの点では成長できたらしい。
おれがいくらぼんやりしてるといっても、ノート1冊ぶんも練習すれば気づくことがある。ま、気づくまでもなく、ペン習字を始めようと思い立ったときに予想していたことではあるのだが、日々の練習のなかで「やっぱりそうだったか」と確認できたことがある。いまの時点での発見は、ふたつ。
ひとつは「同じ字は二度と書けない」ってことだ。
たとえば単純な構造のひらがな、「い」。向かい合う2本の線、ただそれだけの文字である。ところが「いいいいい……」とノートに書いたあとを見直してみると、同じ「い」はどこにもない。似た「い」ならあるが、よく見ればどこかが違っている。大きさ、起点、曲がりかた、はね、終点。注意深く見つめれば、どの「い」も別物だとわかる。
なんの字であっても、まったく同じ字を書くことはできないようなのだ。自分で書く字でさえこうなのだから、他人が書いた手本とまったく同じ字など書けようはずもない。
どうやら、手本と似た字を、少ない誤差の範囲内で安定して書けるようになることを、「字がううまくなる」と呼ぶようなのである。
もちろん、この「上達」はあくまで第一段階のものだと思う。
崩したり散らしたりの「つぎのステップ」が先に控えているにちがいない。おれごときには、おぼろに霞んで、想像するしかない高みだが。
ふたつめは、「きれいな字は逃げ水である」ということ。
一週間前に書いた己の字を見ると、「へったくそだなあ」と感じる。今日だってへったくそに変わりはないのに、一週間前の字は一週間ぶんだけよけいにへったくそなのだ。
「このポキポキした転折はひどい」「つくりがデカすぎ」「線がよれよれ」。
言い方を変えれば、字を見る目が一週間ぶんだけ成長したのである。先週は気づくことのできなかった欠点が、いまなら見えるのだ。あるいは、いまでもポキポキでデカすぎてよれよれに変わりはないのだが、それを言葉を使って認識できるようになった、と言えるかもしれない。先週は「なんとなくダメな字」に過ぎなかった。ところがいまでは欠点を客観的に認識できる。
おそらく、、練習をさらに一週間続ければ、いま気づくことのできない欠点の輪郭が透かし彫りのように見えてくるはずだ。
つまり、こういうことだ。
ペン習字の練習を続けることで上達するのは、手だけではない。手の上達を引っ張る先導車、あるいは後ろからサポートする伴走車のようにして、目も上達する。
「脳の働き」とひと括りに言ってしまうこともできるが、インプットの目とアウトプットの手。糾う縄のようにこの二者が上達することで、書く字のレベルも螺旋階段を一段ずつ上がってゆくのだろう。
あるときは手が先行し、またあるときは目が追い抜き、手がまた抜き返す。
ペン習字の指導者がよく言う「たとえ10分でも毎日練習してください」は、手と目のどちらかの独走を避けるための言葉なのだと思う。
逆説的に言えば「字は一生うまくならない」ことにもなりそうだ。
「なんと美しい」と感じていた字も、目のレベルが上がるとアラが見えてくるはずだ。その欠点を克服したときには、さらに高い次元の瑕疵が浮かびあがってくるにちがいない。
亀に追いつけないアキレス。永久に的に届かない矢。まるで逃げ水。
「理想の字」は、それを追い求めるかぎりはけっして手に入らないのではないか。これがいまの段階でのおれの予想だ。
ただし、理想には永久に届かないとはいえ、満足できる字をかけるようになる日は、いつか訪れるだろうとも考えている。訪れてくれなきゃ困るし。修行僧じゃないんだから。 そのときが来れば、「正誤」「巧拙」の次元を脱して「個性」の段階に足を踏み入れることになるのだろう。
矯正―安定―個性。
よい手を獲得するには、この3つ段階を通る必要がありそうだと考えている。
そしておれがいまいる場所は、矯正の長いトンネルのほんのとば口である。