第12回 なんとか準備が整って、ペン習字の練習を始められるようになった。やる気はある。しかし自信はまったくない。

 ふだん書く字が汚いことは自覚している。おまけに中学・高校の授業ですこしだけ習った書道も、かなり苦手だったのだ。思い出したよ。


 中学で書道の授業があったのは、1年間だけだったように記憶している。
 書道の授業は息抜きの時間、といったムードがあった。生活指導そのもののが必要ない学校だったから授業中に席を離れる生徒もいなかったが、書道の時間はゆるい空気が流れていた。おれも、いわゆる"内職"をしたり水墨画もどきの落書きをしたりと、授業をまともに受けた覚えがない。


 書道の先生が黒板に向かって、チョークでお手本の字を書く。
 先生の隙だらけの背中に向かって、「お前だよ」と指を差す遊びが流行したことがあった。最初はいたずら好きの男子生徒数人が始めたのだが、すぐに女子を含めたほぼ全員が、先生の背中をビシビシと指差すようになった。
 先生がおもむろに振り返ると、伸ばした腕と指先を動かして空中に横画や払いを描き、さも見本の真似をしていたかのようなふりをする。じつに他愛のないいたずらだったが、そのときのクラスの一体感が懐かしい。


 卒業した翌年のクラス会で、書道の先生が亡くなったと聞いた。
 真偽のほどは定かではないが、書道の大きな賞を受けた祝賀会のあとで、酔って歩いているところを車にはねられてしまったのだそうだ。
 「お気の毒に」と思ったが、「なんでも最後にアスファルトに血で『無念』と書いたのが絶筆らしいぜ」とか「その字がまた達筆で」などと尾ヒレをつけることも忘れなかった。ひどい生徒でした。先生、すみませんでした。


 高校での書道は選択科目だった。
 新設の高校だったので選択肢が美術と書道だけだった。おれは「手軽そうだから」という理由で書道を選んだ。国語担当の新卒の先生が書道を兼任していた。太次朗という名だった。太次朗先生は書道が専門で、国語のときよりも熱心な授業をしてくれてた。
 太次郎先生とはウマがあっていたこともあり、おれはまじめに授業を聞いていたし、自分なりに真剣に字を書いた。しかし周囲の級友と見比べると、どうもおれの字はへたくそなようだった。


 高校を卒業してから2年後、夏休みにふらっと母校を訪問したことがあった。
 廊下を歩いていると、教室の開いたドアから太次朗先生が補習授業をしている姿が見えた。先生もすぐにおれに気づいて、教室に招き入れてくれた。
 「ちょうどいい。おまえ、こいつらに受験勉強について何か話をしてやってくれ」。たまたま母校に遊びにきたOBに講演をさせる教師も教師だし、ふたつ返事であることないことしゃべったおれもおれだ。
 プチ講演の冒頭で太次朗先生がおれをこう紹介した。「書道の実技はへたくそだったが、筆記試験で補ったから成績はよかった」。なんだ、先生から見てもおれの字はだめだったんだ。


 そんなわけで、はやい時期に書道と訣別した。しかしペン習字と書道とはちがうもののようだ。いずれはひとつの道に合流するのかもしれないが、本やサイトを見るとあちこちに「書道は芸術、ペン習字は実用」と書いてある。それなら書道のとば口で挫折したおれだって、ペン習字はちょっとくらいいけるかもしれない。


 ペン習字を始めるにあたって、練習の方針ととりあえずのゴールを決めた。


 方針は「書くよりも見る」。
 飽きっぽい性格に体調が万全でないことが重なって、おれは練習を長時間続けることができない。無理に続けたとしても、練習が作業に堕してしまったのでは意味がない。
 そこで、書くまえに手本をじっくり観察することを重視しようと考えた。字の重心はどこにあるのか、線はどのあたりから曲がり始めるのか。体で覚えるのではなく、まずは頭で理解しよう。


 ゴールは「草書の手前」に設定した。
 おれが覚えたいのは楷書だが、行書も書けるとちょっとかっこよさそうだ。しかし草書となると、いまの時点では別世界の存在に思える。そもそもおれは草書が読めない。また、いまは読めるようになりたいとも考えていない。
 パイロットの級位は初級・中級・上級と別れているが、初級のいちばん上である6級をゴールとしよう。うまくそこまでたどり着けたら、先のことはそのときに考えればいいや。
文部科学省後援の硬筆書写技能検定試験というものが"公式"な資格っぽいけど、それの3級を目指すのもよさそうだ。


 こう決めて、ついに練習が始まった。いやあ、ここまで長かった。
 机の上のキーボードとマウスを片づけ、テキストと練習用のノートを開き、ペンジを手にする。
 ………………。
 「よく見る」と決めたおれの目が、なにも見ちゃいなことに気づくのに1分もかからなかった。



 
練習初日のノートから





お手本と比較したもの