第36回 今日は万年筆の日らしいので、字にまつわる昔話をひとつ。
※手書きバージョンはこちら
おれが通っていた小学校にはクラス替えがなかった。
1学年あたり160人の生徒がいたが、入学時にいったん4クラスに分けられると、あとは卒業までずっと同じクラス。
3年生と4年生のあいだに担任が変わる。それぞれの先生が3年間ずつ受け持つ形だった。
同じ教室で6年間。
考えようによっては家族よりも長く濃い時間を共にする関係である。ひとりひとりのクラスメートについても、ずいぶん細かいことまで知るようになる。どの学科が得意で苦手なスポーツが何で、どんなときに泣いて、何に対して怒るのか。怒ったときは赤くなるのか青くなるのか、静かに涙を浮かべるのか、一瞬笑顔をつくって背中を向けるのか。自然と、そんなことまでわかるようになってくる。
クラス全員の誕生日もそれとなく覚えていたと思う。
もちろん、字の癖だってわかる。名前の書かれていないノートを見ても、誰のものかは瞭然だった。
字を丁寧に書く子もいれば、悪筆の子もいた。なかにひとり、とても個性的な字を書くクラスメートがいた。それがフクダ君だ。
フクダ君は左利きで、字を書くのも左だった。だからといって、左利き特有の癖字だったわけではない。フクダ君が書く字は、とてもまっすぐな線で構成されていた。
まるで定規をあてたように、という表現があるが、フクダ君に関してこの表現は比喩ではない。なぜなら、彼は一画一画、すべての線に定規をあてて文字を書いていたのだから。
入学して同じクラスになったとき、フクダ君が字を書く姿はとても目立った。右手でものすごい速さで定規の角度を調整し、左手に持った鉛筆で線を引く。
「一」や「ニ」などの、直線だけで構成された単純な字ならマネすることもできるが、「赤」や「草」、「糸」といった画数の多い漢字の場合も、器用に、そして俊敏に定規を動かして字を書くのである。
ノートのノドに近い部分に字を書くときでも、持ち方をうまく調整して、定規をひっかけることなく筆記していた。
もしもその時代に"全国小学生定規操作コンテスト"なんてものがあったら、まちがいなくフクダ君が優勝したと思う。世界チャンピオンにだってなれたかもしれない。
小山ゆうに『おれは直角』というマンガがある。
主人公の石垣直角は父親が名前に込めた意味を曲解した結果、角を曲がるときも剣を振るときも、軌道が直角になるように動く。もちろん書く文字も直角で構成されている。フクダ君の字には45度や30度の線こそあったものの、かぎりなく『直角』の文字に近かった。
3年生になると、フクダ君は定規を使わなくなっていた。
書き方を変えたわけではない。手が覚えてしまったのだろう、定規なしでもきれいな直線を引けるようになっていたのである。
学年が進むにつれ、フクダ君の書く字には丸みが備わってきた。それでも三つ子の魂なんとやらで、アップライトでキュビズムな文字は、それじたいが落款のようなものだった。
卒業してから何年経っても、癖の強い字を見るたびにフクダ君を思い出した。そして思った。
彼はなぜあんな方法で字を書いていたのだろう?
記憶のなかのフクダ君のお母さんは、端が吊りあがった形の、太く大きなフレームのメガネをかけていた。当時の典型的な教育ママのメガネ。
厳格で教育熱心で一本気なお母さんに命じられて、まじめなフクダ君は定規文字をいやいや練習していたのではないか。おれは自分のなかでそんな風に結論づけていた。
今年の初夏、小学校のクラス会があった。フクダ君も参加していた。
いまや彼は大学病院で脳の血管を研究する専門医である。まじめな性格は小学校のころと変わっていないようで、おれが心筋梗塞と脳梗塞について打ち明けると、じつに親身に、そして専門的なことをかみくだいて多くのことを教えてくれた。
専門家である彼のレクチャーをありがたく受けるうち、字についての質問をして自説の正しさを証明したくなった。
「フクダはさ、小学生のとき定規で字ぃ書いてたじゃん。あれはお母さんの方針だったの?」
おれは「うん」という答えを予想していた。しかしフクダ君の答えはちがっていた。
「ちがいますよ。幼稚園のときに左利きで字が下手だったから、きれいに書きたいと思って自分で工夫したんですよ」。
聞いてびっくりとはこのことだ。
定規で字を書くことじたいは、子供なら誰でも試したことはあるだろう。しかし、誰もがすぐに飽きる方法だと思う。ところがフクダ君は、強制されてもいないのに、あれほど忍耐力のいる方法で字を書き続け、ついには定規が要らなくなる高みにまで到達してしまったのだ。まじめにも程がある。
このフクダ君のまじめさと一徹さ。さぞかし患者思いで研究熱心な名医なんだろうな、と思いながら頷いた。降参だよ。
今日は万年筆の日。そしてフクダ君の誕生日でもある。
フクダ君、誕生日おめでとう。